通算100勝達成 H監督の

箕谷少年野球部『史上“最強軍団”』の4年間を振り返って

 

1.                           はじめに

新年あけましておめでとうございます。

昨年までの4年間、部関係者の方々には大変お世話になりました。心から御礼申し上げます。

4年間の任務を終え“ほっと”している矢先に野球部新聞への投稿依頼を受けました。当初はお断りするつもりでしたが、J先生はじめお世話になった方々、昨年Aチームの関係者ならびに私ごとき素人監督についてきた選手諸君への御礼の気持ち、そして厚かましいとは思いますが、今年から主となる部関係者各位に参考になればと思い、私とともに戦ってきたチームの4年間を以下に振り返りたいと思います。

 

2.                           監督・Jr.Bチームとしてのスタート

1999年6月中旬の山田公民館でのことでした。当時のI部長から『3年生以下の部員が10名になり、Jr.Bチームを結成したいのでHさん監督をお願いできませんか?(後日談ですが、当初はHa監督の構想だったそうです)』 この要請に対し、気弱な息子にとにかく団体生活で一つのことを全うさせたいという気持ちから、『私でよければ』と受諾し、4年間の監督生活がスタートしたわけです。活動開始後まもなく、早くも花山Jr.B(昨年のAチーム)との練習試合が組まれ、そのデビュー戦は濱本-奥田のバッテリーしか計算できない状況で当然のことながら大敗でしたが、その2週間後に再度同じ相手に攻め勝ち、監督としての1勝を挙げ『ほっと!』したのを今でも覚えております。そう言えば、当時、箕谷小学校にはスコアボードがなく当日は段ボール箱を切り開いたものを使用し、暫くの間そのスコアーボードを家に飾っておいたのを覚えております。

この年の監督(Jr.Bチーム)としての活動はと申しますと、甲北リーグ(秋の甲北杯)への参戦はあくまでもオープン参加ということもありリーグ戦3試合を消化(0勝3敗)したのみで、7月~10月にかけてはほとんどが基本練習(ノック・ティーバッティング)の毎日でした。この頃の私は、J先生との会話もほとんどなく、練習メニューを考えるのに苦労もしましたが、以後の結果を振り返るとこの時期の練習で選手が基礎体力・基本技術を身に付けたことが非常に大きかったと感じております。

Jr.Bチームの戦績:1勝4敗】

 

3.                           Jr.Aチーム(2年連続対外試合制覇)の快挙達成

Jr.Bチーム結成後、そのほとんどを練習に費やしたこのチームは、翌年(4年生)のシーズン開始当初は半信半疑だったものの開幕1ヶ月後からめきめきと練習の成果をあらわしはじめました。前年のJr.Aチーム(昨年の納会で御挨拶を賜りましたあの漫才師のようなIさんが率いたチーム)が“西神戸ちびっこ大会”において野球部史上初の対外試合優勝という素晴らしい結果を残したことが監督の私には非常にプレッシャーでしたが、我々のチームも甲北リーグでは夏季大会(ベスト4)を除くすべてのJr.の部で表彰を受け、会長杯“優勝”を決めたその日に一気に飲み干したビールの味は今でも忘れられません。そしてこの年のフィナーレは、“神戸北選手権大会Jr.の部”での優勝です。一回戦こそ楽勝したものの、以降は優勝候補筆頭の南山Jr.をはじめ手強い相手の連続で、準決勝・決勝は冷たい雨の中での戦いでした。決勝戦では、『ユニフォームがドロドロになってもかまわへんから、必死にボールを追いかけて走って滑り込め』と今考えると何ともJr.の子供達向けの指示をしたものです。結果はワンサイド勝ちで思ってもみなかった“優勝”の栄冠を獲得し、試合後にJr.Bチーム結成から二人三脚で苦労してきたHa副部長(当時)の顔を見たとたんにそれまでこらえていた嬉し涙がこぼれ、それを人に見られないようにするのに困ったことを覚えてます。

この年はこのように素晴らしい結果を残したわけですが、この結果は何も厳しく毎週練習を繰り返したことのみで得たものではないと思っております。勿論、各コーチ・お母さん方の協力も絶大なものがあり感謝はしておりますが、やはり、Jr.の選手ですので子供達が野球をさらに好きになるように誘導していくことが非常に重要です。厳しく指導すれば子供達の技術はアップするでしょうが、野球という子供達の楽しみを尊重しながら技術を向上させることが大切でしょう。子供達の性格も様々ですので、怒られて『シュン!』となってしまいそれがきっかけで練習へ行くのが嫌になってしまう子供もおります。よってJr.では、怒って良い子供とそうでない子供を見極めて指導することがポイントで、怒られた子供を見ていると他の子供もそれを見ながらあらゆることを間接的に覚えることになるんです。ちなみに私のチームでの“怒られ三役”は、濱本・奥田・平本でしたね。それともう一つ、試合ではたとえイージープレイでも出来れば子供をまずは褒めることです。それによって試合中の子供達には笑顔が生まれ、さらにのってくるんですよ。

以上、偉そうなことを申し上げましたが、今年のJr.の指導者の方々の参考になれば幸いです。

Jr.Aチームの戦績:19勝5敗1分け】

 

4.躾の強化

Jr.時代の後半からJ先生のお考えもあり当時の1学年上との合同練習が始まり、これによって監督としての私は子供達への技術的な指導の機会は減りました。このことについては、私は何も異議がなく、その時間を子供達の礼儀作法・練習態度の指導にあてることにしました。と言いますのも、それまで他チームと多くの試合をこなしてきましたが、その過程でJr.チームということを割り引いても子供達の礼儀があまりにも他チームと比べて見劣りしたからです。Jr.時代のある日の試合後に『野球が上手くても礼儀ができなかったらアカン!』と言った私のコメントを当時の“箕谷ジュニア新聞(現在の箕谷少年野球部新聞)”にAさんが掲載してくれたのを機に、徐々にですが選手達に礼儀作法面での進歩がみられるようになったのです。野球の技術は急速に伸び、それを実戦で発揮することはできますが、礼儀作法はそういうわけにはいきません。ですから、Jr.の時点から野球の技術面と並行して礼儀面の指導が必要なのです。各チームのその年々の成績は選手の資質や試合の運などによって“山あり谷あり”は当然のことでしょうが、せめて毎年(いつも)“爽やかな気持ちの良いチーム”と言われるよう、ご指導のほどお願いいたします。

 

5.一年先を見据えたシーズン

5年生(Bチーム)の年は、翌年のAチームとしての戦力強化に向けた準備期間とも言えます。と申しますのも、Bチームは対外試合が少なく目標を持ち難いこと、ならびに甲北リーグではBチームはA・Bの部でリーグ戦を戦うためです。この一年間に一学年上のスピードに慣れさせ養うことができるか否かで翌年のAチームとしての結果がある程度決まってしまいます。したがって、結果よりそのことを優先して試合をさせましたが、Bチームとしての数少ない対外試合の一つである“北須磨大会”には選手達にはっぱをかけて挑みました。一回戦から連続コールド勝ちの快進撃でベスト4まで進出しましたが、準決勝ではスピード・技術ともに勝る三田ウッディーボーイズに大敗し3位に終わり、この試合で“上には上がいるものだー”と私をはじめコーチ・選手達も痛感しました。ですから、Bチームの時点からAチームとしてのスピードと技術を養うための練習が始まっていると思わなければなりません。『頑張れ!Bチームの選手諸君!』

Bチームの戦績:31勝16敗3分け】

 

6.“史上最強軍団”の誕生

『ついに最後のシーズンがやってきた!』選手よりも各コーチの方が入れ込んだ状態で最終シーズンを迎えました。しかしながら、“北須磨大会”の二回戦であの花谷チームに常に優位に試合を進めながら1対0で惜敗し、そのスタートは順風満帆ではありませんでした。甲北リーグ春季大会決勝で冨士田の決勝タイムリー2塁打で出場権を得た5月の全神戸選抜大会でも若宮チームに完敗し、その際には、『やはりこのチームは早熟だったのか?』との思いになり、監督として不安を覚えたものでした。ところが、6月末から始まった『兵庫県天王ダム杯トーナメント大会』『新緑トーナメント大会』で選手達は奮起してくれました。一週間遅れで並行開催となった両トーナメントで我がチームは試合を重ねるごとに調子を上げて行き、『新緑大会』は準優勝に終わったものの、『天王ダム杯』では新田・平本の本塁打と平本・濱本の投手リレーにより7対3で南山を撃破し、創部28年目にしてAチームとして初の対外試合のビッグタイトルを手中にしたわけです。この時の瞬間は今でも鮮明に覚えており、試合終了後、顧問のPさんに抱きつきまたまた目頭を熱くしたものです。新年会で目標としていた前人未踏の“対外試合での優勝旗1本”を手にしたわけですから、しばらくの間は、箕谷少年野球部史上『最強チーム』と名乗らせていただきますよ。この快挙を超える成績を毎年残して欲しいことは言うまでもありませんが、このチームが刻んだ一ページは永遠に語りつがれると思っています。

Aチームの戦績:56勝14敗1分け】

 

7.監督と息子

箕谷少年野球部では選手の父親から監督を選ぶシステムをとっていることから、私のチームにも我が息子(侑一郎)がおりました。3年生の時から濱本・奥田とともに一学年上のJr.Aチームの試合に出場しており、Jr.Bから昨年のAチームまでの4年間はショート兼ピッチャーをしておりました。地肩が強いことを見抜いたJ先生が投手として濱本との二枚看板で育成する方針を決めたわけで、本人もピッチャーをやりたかったとの希望がかない喜んでましたが、これが“ノーコン”で困ったものでした。本人も悩んだでしょうが、監督・父親の両面で私も非常に悩み苦労しました。したがってJr.時代は当然のことながら主戦は濱本で、息子には確勝と思える格下相手にしか投げさせませんでした。いくら経験させても一向にピッチングが向上しない侑一郎に、Bチーム時代まで『お前はピッチャー失格や!やめとけ!』とよく夕食の際にどなりつけたものです。ところが、J先生がよく仰っていました“走り込んどけよ”を最後の頼りに、毎日毎日約3Kmの走り込みを侑一郎に命じそれを実行させたところ、6年生のシーズン開始当初から、スピード・コントロールともにめきめきとその効果が現れ出し、昨年の北須磨大会から、J先生が構想としていたピッチャーの2枚看板が確立できたわけです。濱本に比べて安定感は欠けましたが、スピードは濱本以上のものになりましたので走りこみの効果は歴然でした。投打ともにこの一年間の成長は、親父としての贔屓目を除いても一番だったことは間違いありません。このように監督をやっていますと昼の部と夜の部(息子専用)の練習(怒鳴り付けるのも2倍)となり非常に疲れますが、やはり自分の息子が活躍できるようにするためには必死で、今思えば、本当に厳し過ぎたと思います。ですから、Uさん・Aさん、息子に期待するのはわかりますが、昼間の野球部での練習では他の子供達と同じく接し、個人練習では息子さんにはまずはお父さんとして個人的に悩みを聞いてあげたうえで、時折、父親の表情を見せながら教えてあげてはどうでしょうか?これはあくまで私の経験ですのでその是非は?ですが、息子も悩んでいる時は誰かを頼りにしたいもので、監督の息子もつらいと思います。U君・A君ともに私がJr.の監督の際に入部した子供ですからやはりその成長は今でも気になりますので、私のアドバイスが一助になれば良いかなと思っております。U親子・A親子、頑張れ!

 

8.J先生へ

この4年間、私のチームへご指導頂きまことにありがとうございました。心から御礼申し上げます。このチームに対し、先生はどのような感触を持たれたかはわかりませんが、監督としての私は、『天王ダム杯』の優勝では満足しておりません。選手個々の資質から言えば六大大会のうち3大会に優勝してもおかしくないチーム戦力だったと思います。特に全神戸大会という冠がついた大会で一勝もあげられずに終わったことは非常に残念でありません。しかしながら、『天王ダム杯』での結果は、箕谷少年野球部の球史に残るもので、これもひとえにJ先生のおかげだと思っており、また、私もその時の監督という名誉ある結果を得ました。本当にありがとうございます。昨年の納会にて長年着用していたユニフォームを返却しようとしましたが、それも受け入れられず、先生から『近いうちに着ることがあるから持っておいて!』と言われ正直複雑な気持ちでおります。要請を受けております“強化コーチ”としての部への参画については、快く引き受けてさせて頂きますが、私もサラリーマンですので、その時々の状況を見て判断したいと思います。ただ、箕谷少年野球部の繁栄のために微力ながらお力添えになればとの気持ちに変わりはありません。一度、ゆっくりとお話させて下さい。

 

9.ご苦労様でした

(1)   Ha部長・・・・・監督として自由にさせていただきありがとうございました。

(2)   Nさん・・・・・来年のAチーム監督、息子がいないチームの監督は大変だと思いますが頑張ってください。

(3)   Aさん・・・・・部の新聞を通じて、広報の大切さ、必要性を痛感しました。リーグの広報部長をよろしく!

(4)   Tさん・・・・・3年間のウィンターコーチ、ありがとうございました。貴殿の存在は子供達も喜んでました。

(5)   Sさん・・・・・息子さんの再入部を要請したことを覚えてます。親子共々、本当に最後まで仲間で良かった。

(6)   Iさん・・・・・同業ですので、仕事の忙しさは十分わかります。今後とも部の繁栄にご協力願います。

(7)   お母さん方へ

この四年間、本当にありがとうございます。昨年の納会でもお話しましたように、監督“H”は非常に厳しい指導をしてきました。チームとしての結果は、ご存知のとおり非常に輝かしい結果を収めることができたわけですが、子供達にとっては結果はもちろんのこと私の指導に耐えたことがなによりの財産になると確信しております。いつ何処で出会っても、子供と一緒に『監督!』と呼んでくれることを願っております。

 

10.最後のスタメン発表

一番、サード友寄(活躍したときの笑顔は最高でした)二番、センター川原(新緑大会の準々決勝のサヨナラヒットはナイスバッティング)三番、ショート(ピッチャー)平本(天王ダム杯決勝のホームランとピッチングは素晴らしかった)四番、キャッチャー奥田(チーム優先に徹した打撃と守備はチームの要そのものでした)五番、ファースト新田(チーム最多のホームランはさすがでした)六番、ピッチャー(ショート濱本(天王ダム杯・新緑大会でのピッチングでやっぱりエースはお前や!と思ったわ)七番、ライト秋山(甲リーグ秋季大会での決勝打は忘れないよ)八番、レフト下里(最後の最後に念願のホームランを打てて良かったね。これぞ恐怖の箕谷打線)九番、セカンド田中(ライト打ちの貴重な追加点で助けられたよ)・・・・・。

代打、冨士田(甲北リーグ春季大会決勝のタイムリーはナイスバッティング!)代打、市田(終盤のチャンスに強いバッティングは特筆もの)代打、西原(交代した守備で必死に打球を追う姿勢を今後も大切に)代打、塩浜(チャンスに強い打撃は貴重な存在でした)代打、大平(シーズン終盤は、タイムリーヒットを放つなど大活躍)

 

『ええか! 気のないプレーした奴はすぐに交代やぞ!・・・・・・・・・』

中学校へ行っても、監督のこと一言を思い出して何事も頑張れよ。

 

 

2003年1月3日

箕谷少年野球部 元Aチーム監督